2011/03/24

おさかなくわえたどら猫



物心、たぶんついていない、小さな頃の記憶です。


とてもショッキングで、
今でもはっきり覚えています。


小さな私と母とおばあちゃんで、
庭の見えるリビングにいました。


リビングの窓は床から天井までの木枠の大きな窓で、
幅が100㎝ちょっとあったのでしょうか?幅広の、
窓というよりも、ガラスの引き戸のようで、
それが5枚並んでいました。


そこから見える庭は、
大きな絵画のようで、
いつも輝いていた印象があります。


その日いつものようにリビングで過ごしていたのだと思います。


庭の向こうから芝生を横切って走って来た黒猫。
気付いたとき黒猫は既にそこまで迫っていました。


黒猫は、なんと、そのままガラスをつきやぶって、
リビングに入って来て私たちのほんの横を通り過ぎ、
そのまま台所まで走り抜き、
台所にあった魚の干物をくわえて
また庭の方に走り去ったか、
台所の窓から逃げたか、
その辺りは覚えていません。


あまりのショックと、恐怖で、
泣きもせず固まっていたのを、はっきり覚えています。
しばらくしてから、泣いたような気もします。


今書いていて思ったのですが、
はっきりした記憶なので今まで現実だと思って来たけれど、
あまりにも現実離れした様子に、
夢だったのでは?とも思い始めています。


ガラスを突き破ったのはたぶん事実。
母がそんな話を人にしていた記憶もあるから。


台所の鯵の干物をくわえて逃げるなど、
まるでサザエさんのどら猫ではないか。


その辺りが、後付けの
何かと合わさった記憶なのかも知れません。


機会があったら、母に確認してみたいと思います。








補足:ねこもガラスが見えなくて走り抜き、
   一番驚いたのはねこ本人だったことでしょう。




補足2:昔の作りの家だったので、
    ガラスも現在のサッシ窓のような固いガラスではなく、
    窓枠へのガラスのはまり具合も甘く、
    風が吹くとガラスががたがた言うような窓でしたから、
    猫が容易につきやぶれたのでしょう。




  
  

あってはならない、怖さ。



地震は怖い。
今までは、純粋に、地震の揺れそのものに対して感じていた怖さ。


今はどうだろう。
開いてしまったパンドラの箱を見て、
これから国がどうなってしまうのか?と感じる怖さ。

強くて冷静だと言われる日本人。
少々強く揺れても、少々ライフラインに不備が出ても、
耐えられるだろう。
でも、一人一人が耐えても、
国が国として耐えて、やって行けるのだろうか?
政治家云々と言うレベルではもうない。

最高に整備された環境を誇る日本が、
これからどうなってしまうのか?
今までに感じた事の無い、経験した事の無い、
あってはならない怖さ。

それが今東日本にある。

今後、東だけで済むとは限らないが。

  

mimiとおじいちゃんのテリトリー



おじいちゃんは


神経質で、几帳面で、厳しかった。


それに伴って、


猫や動物が嫌いだった。




私は小学生の頃、猫を飼っていた。


名前はmimi。


三毛猫。


家が広かったし、


mimiとおじいちゃんのテリトリーは、


ほぼ重なっていなかったので、


トラブルは全くなかったが、


庭の花壇を堂々と歩くmimiや、


おじいちゃんが手をかけていた池の鯉を執拗に眺めるmimiを、


おじいちゃんが快く思っていないのは、


小学生の私にも、痛い程わかる。




自分の愛する者を他の愛する者が愛してくれないのは、


悲しいけれど、仕方ない。




とにかく、毛嫌いこそすれ、感心など一切持たないおじいちゃんだった。




そんなおじいちゃんがある日言った。


「mimiちゃんは、どこへいったかね?見当たらないが。」




私も、母も、おばあちゃんも、


思わず顔を見合わせた。


mimiがうちに来てから3〜4年経っていたが、


おじいちゃんがmimiの事を口にしたのは初めてで、


「やっと、認めてくれた!興味を持ってくれた!」と、


心の中でとても嬉しく、


それを口に出すとこわれてしまいそうで、


普通を装って「どこ行ったかな?わかんない。」と答えたのを覚えている。


そしてその会話はそれきり終わった。


おじいちゃんは書物に向き直り、少し自分の周りに壁を作った。






その日の夕方、


家の前の道路で、


車にひかれて倒れているmimiを見つけた母。


mimiはもう息をしていない。






おじいちゃんの言葉は、


mimiの死を予感したものだったらしい。


時間も大体その頃だったのだろう。


mimiは旅立ちの時、


孤独に路上で耐えていただろうけれど、


その瞬間おじいちゃんがmimiを想い、


mimiは暖かい気持ちで逝く事が出来たんだと思いたい。


mimiごめんね。


おじいちゃん、ありがと。






ちなみに、今はおじいちゃんも、


mimiと同じテリトリーにいるはずです。


  





2011/03/21

ああ、今日も完璧な私の人生。



今日仕事帰りのスーパーマーケットで、


低カロリーで美味しいメニューを
機嫌良くイメージしながら、
綺麗に見える足の運びに気を配り、


また、本日のお買い得品と、
欲しい物が一致して更にテンポ良くメニューが決まって行き、
顔の表情も明るめかつ自然に作りながら、


買物時間を少しでも短縮したく、
頭の中を気持ちよくフル回転させて、


ああ、今日も完璧な私の人生*。などと考えていたその時、
悪夢は襲って来た。突然に。


がらがらがら
「どけ!ブス!」


..........!


一瞬にして私の完璧な人生ががらがらと崩れ去り、
と言うよりも、
後ろから後頭部の命に関わるつぼを容赦なく叩かれた感じ。


ハッとして振り返ると、後ろからカートを押しながら
スピードを上げて迫って来た少年。
不適にも私の目を直視しながら追い越して行った。


耐えられない!心が痛い!
心の痛みを全面的に解放したいけど、
世間の目もあるし、
相手は小学校3年ぐらいのガキンチョ...あ、失礼、子供です。
いちいち本気にするまでもない。


でも、傷ついた!
私だって大人だから普段もっと深刻な悩み抱えてる時もあるし、
もっと、大人相手の恋の悩みとか、複雑にあるわけだけど、
ある意味、それらのふわっとした心の傷よりも、
直接痛い!


生まれて初めて言われたその少年の歯に衣着せない言葉の暴力に、
雨の中*、傘もささずに
「わああああ〜っ」と駆け出しそうでした。








補足:


*完璧な人生とは言葉のあやで、実際はそんなことありません。
 機嫌のいい時にかなり頻繁に頭に浮かぶ言葉ですが、
 悩み事も多いのが事実です。
 しかし、なにしろプラス思考の人間ですので、
 すぐに何でも良い方にとらえて、
「完璧。」と思ってしまうということです。
(ふう〜、完璧な補足だ。)


*雨の中、と書きましたが、実際雨は降っていませんでした。
 心理状態を表す比喩といったところでしょうか?


ちなみに、この衝撃をtwitterでつぶやいたら、
いつもトムを軽くあしらっているねずみ「ジェリー」くんが、
やさしく慰めてくれました♪
「ガキンチョは思ってることの反対を言いますからね(^ー゜)」
そのひとことで、
私の人生は再び完璧な状態に戻ったのです。


はやっ




   

気怠く不安定に遅れを取る次の音。



ピアノは素人です。


その曲が好きかどうかと言う事だけで、
技術などは深くは考えません。


フジコ・ヘミングさんの弾くピアノは、
そんな素人の私から見ても、
独特の彼女らしさがあるように思います。


彼女の事を良く知っている訳では全くないけれど、


悲しみを乗り越えて来たような、音。


音と言うよりも、間合い。


気怠く不安定に遅れを取る次の音。
なのに曲全体は安定しているのです。


「ピアノを弾くのはもういや。悲しくなるから。
 でも弾かずにいられない。私にはもうピアノしかいないから。」
彼女の弾くピアノには、そんなイメージが漂っています。


  

2011/03/20

人間の本能



震災後、主にtwitterやネット発信で
マスコミに対する長年の疑問や不満が噴出して来ている。


ワイドショーでは視聴率を穫らなければ、
番組自体の存続も危ういし、
延いてはテレビ局生命にもかかわって来る。
視聴率の穫れる内容を模索した結果が、
今の番組内容なのだ。


被災者の方へのインタビューで、
被災者の方が律儀に答えている途中で黙り込み、
突然嗚咽するのを見て、
「いい加減にしろ」「こんな時にインタビューなどするな」
「たのむから放っといてあげてくれ」
という感想や非難や、ネットへの書き込みが多いにも関わらず、
その時の視聴率の高さがその感想を裏切っているのだ。


テレビ局側からすると、
視聴者の見たい物を流しているだけだ、
視聴者がこのように育てて来たのだ。
と言いたいだろう。


事実、芝居、やらせ、を上手く混ぜて、
インタビューされる側には芝居させられている事を、
いかに感じさせず、
いかに自然な形でやらせに持って行き、
いかに泣かせるか。
そこまで行くと、自然に勝手に泣いたのだから、
やらせでも芝居でも無い。真実の報道だ、と言う事になり、
カメラもそれを証明している。


報道の仕方も、
淡々と事実を述べただけでは視聴率は穫れない。
少し言い方を変えて、
ちょっとした言葉の操作で
プラスイメージにしたり、マイナスイメージにしたりできる。
誰がしかをヒーローに仕立てる、
もしくは悪者にしたてて、
視聴者に感想を持たせ、
自分は悪くない、もしくは、自分もわかる、
と参加させて、
視聴率を穫る。


報道のやり方をかばっているのではもちろんない。


今そこにある事実を言ってみただけだ。
悲しいけれど、
そのとき上がっている視聴率はいいわけのしようがないのだ。


どうにかやりようが有るのかも知れないが、
人間の本能、
「見てしまう」
がどうしようもなく、そこにある。


ちなみに、私はニュースも、ワイドショーも、いっさい見ない。


  

2011/03/16

私たち日本人は、 目を閉じる事にも長けています。


日本を家にたとえる。

今災害に遭い、
二階の屋根が飛んでしまい、
二階にいた家族があぶない。
ガス漏れのような自体も起きている。
一階は身動き出来ず、
二階の様子がわからないどころか、
電気は消え、
寒さと暗闇が襲う。
二階の静けさに、身を震わせる。

でも、お父さんは働きに出なければ、
家の修理も、これからの食料も買えない。

お父さんが外でどんな仕事をしてこようとも、
家や家族を守るため。

仕事の内容はどうだっていい。


だから、
イベントやお店に、
不謹慎だなどと言わずに、

今は黙って、
目をつぶって、
受け流せる事は受け流しませんか?

今日もこれからも、
日本という家を一眼となって建て直すのに、

日本の国力がこれ以上弱まると、
家を建て直す事も出来ないどころか、

家族を元気にして行く事も、
出来ません。

日本の経済活動を止める事は、
結果的に被災者の救済にとってマイナスであります。

根底に愛があれば、
内容はよしとしませんか?

現在、日本人の素晴らしいところが、
世界で浮き彫りになっています。
今後復興も鮮やかにやってのける事は、
日本人なら出来るとおもいます。

私たち日本人は、
目を閉じる事にも長けています。

それは、良い事なのかわかりませんが、
大人の知恵です。

あまりうなづけないような事でも、
被災地の為に、
甘んじて受け入れませんか?






補足:
開催される多くのイベントは、
人目を気にして小さくなりながら、
収益の一部を義援金にしたりして開催するか、
中にはすべての収益を
そのまま寄付する主催者の方も実際いらっしゃいます。

飲食店なども、
サービス品を無料提供したりして、
精一杯がんばってます。
何かを無料提供する事の大変さは、
商売をされたことのある方なら、
お分かりと思います。

それらには利益の追求は起きていません。

だた、同時にそこには私たちと同じく、
生活がかかっています。

ひとつひとつの案件に
儲けてる儲けてないの判断をするのではなく、
全体を大きな日本という自分の家だと思って、
経済活動を豊かにしておく事が、
復興の力になってくれるはずです。

もちろん中には本当に自分の利益を追求している人もいるでしょう。
でも、そう言う所には取り合わず、
経済を潤してくれているんですね。という軽蔑の目でもいい、
目をつぶってやり過ごす事も、
考えに入れていって欲しいと思います。

ただ、この考えは
直接つらい目に遭ってない、すこし余裕のある人にわかって欲しいです。

本当につらい思いをしている人は、
深呼吸して、
どうかご自分の事だけを考えて下さいね。

  

2011/03/15

愛する人と向き合う方が、 どんなに有意義かわからない。



このところ、
ひどい事言っちゃう人に、
失言失言と叩きまくる空気がある。


失言を聞くと確かに胸が痛く、
いらつき、正義感が刺激されて、
怒りが込み上げて来る。


しかしその時、その人は
愛する人に背を向けて、
ひたすら怒りの対象に向かって
我を忘れてわめきちらしていて、
愛する人の小さな声を聞く事が出来ない。
「その人の事は良いから、こっちへ来て私の声を聞いて」


失言はあくまでも失言。
間違って言ってしまった事。
それを「失言じゃない」と言い張り主張を続けるならば、
何かしらの制裁は自然と下る。


失言だったと謝れば許すべきだし、
もともと、
時間をさいてそこに取り合う事自体、
ばかばかしいのだ。


その時間
愛する人と向き合う方が、
どんなに有意義かわからない。


想像力のつばさを羽ばたかせて、
被災地に行ってみる。
被災者の方の声を感じ、痛みを感じて、
要望を知り、
自分が無力であることを知り、
それでも謙虚に役に立つ事を少しやって、
少しでもいいから、義援金寄付をして、
失言した人をゆるし、
被災地の痛みが少しでも和らぐように祈り、
twitterで有益で確実な情報をリツイートし、
それを復興にさしかかるまで、
何度でも続ける。
毎日毎日。


だから、
失言した人に関わっているひまはないのだ。


 



2011/03/14

あなたへのランタン



今日うちの店に、
70代前半らしきご夫婦が見えた。


探し物らしかったので、
「お探し物でしたら、おっしゃって下さいね」と
声をかけたら、
電池式のランタンを探しているという。


うちの店にあるような雰囲気重視の
たよりないインテリア照明ではなく、
もっと実用的なのはないかと、聞いて来る。


災害用かな?と思った。


お客様の言われる商品は、残念ながらうちには無く、
奥様がつかれた様子だったので、
「どうぞよかったら、おかけ下さい」と座ってもらった。


お二人の前に立っていろいろお話を聞くと、
ホームセンターなど何件か回ったけれどどこにもない。
息子さんの経営する飲食店が東京にあり、
停電の時間帯に店内を照らすランタンが必要なのだと言う。
それも今日すぐに送りたい。


暫くの間、
「電池は使い捨てではなく、
 充電式の電池が良いかも知れませんね。」とか、
「どうしてもランタンが手に入らなければ、
 懐中電灯を吊るしてもいいかね?」とか、
「今運送便は1日2日送れるようですよ。」とか、
10分程話し込んだ。


年老いたお二人は探しまわった疲れで、
少々顔色も悪く、
私がお話を聞くうちに心を開いてくださって、
逆に気を抜いて疲れが出てしまった様子。


「あーあ。どうするか。」と投げやりになってきたので、
私は「良かったらお茶飲んで行かれませんか?」
と誘うと、ご主人は
「いやー悪いからいいよー」と遠慮、
奥様は本当にきつかったようで、
「お茶いただこうよー」とご主人に言う。
私はよし、今だ、と思い
「では、少しお待ち下さいね」とあわててお茶を淹れに走る。


休憩室で、
良い方のお茶を美味しく淹れて、
すぐにお客様のもとに戻った。


お茶をお出しすると、
急に静かになって、お茶に集中しているようだったので、
私はそっと席をはずして、カタログでランタンを探してみた。
あった。でも取り寄せ。


しばらくするとお二人はにこにこ顔の元気な状態で、
お茶有り難うございますね、美味しかった。
とお湯のみを下げて来て下さった。


わたしは、
「もしお取り寄せでよろしければ、
 いつでもおっしゃって頂ければ、
 お力になりますので」と言った。


奥様は
「そうね、その時は是非お願いにあがります。
 また別の買物にも来ますから。
 ありがとうね。」
と言いながら、笑顔でお帰りになりました。


東京でがんばっている息子さん。
ごめんなさい!
お役に立てませんでした。


でもあなたの為に懸命に「何かしてやりたい」
というご両親の愛がひしひしと伝わって来ました。
お二人寄り添って、
探しまわっているのです。


あなたへのランタンを。


  
  

2011/03/13

日本は美しい。 いままでもわかっていたけれど、これほどまでにとは。





私がモットーのように、
常々思っている事。


「普段はどうあれ、
 いざと言う時に頼りになる人である」と言う事。


その事は、だらしのない父なら、大黒柱足らしめるだろうし、
経営者なら、あれこれ口さがないスタッフを黙らせる。


人は、みな、
欠点を持っている。


怒りっぽい、だらしない、無責任、わがまま、
心が弱い、流され易い、冷たい、意地が悪い、
お酒に飲まれる、悪癖をやめられない、
盗み癖、浮気癖、遅刻癖。


数え上げたらきりがなく、
誰でも、何かしらの欠点を持って、
自分を責め、人を責めながら、
生きている。


完璧な人など、いるのだろうか?


とにかく、
自分の周りの人を、
欠点も含めて愛し、愛されながら、
不満ももちつつ、
なんとかやって行くのだ。


でも、
私が好きなのは、
そんな欠点のある人でも、
いざと言う時、
一生に何回か、
突然思っても見なかった底力を発揮する時。


普段、だらしなく酔って、
お腹をかきかき寝てしまうような人が、


誰かが本当に困っていると、
スッと静かに立ち、
当たり前のように自分が盾となり、
問題に1人立ち向かい、
困っている人が泣いている間に、
さっと解決してしまう。


いつも、自分が自分がと言っているはずの人が、
なにか大変な事が持ち上がると、
なんの未練も無く自分を捨てて、
人の為に立ち上がる。当たり前のように。


そして、
悪条件に耐えて耐えて、
更に悪い事が降り掛かっても、
また耐える。
たんたんと、クールに。


美しくあきらめる事が出来る反面、
密かに希望を持つ事が出来る謙虚。


大声を出して痛みや不満を訴えない。
歯を食いしばって耐える事を美徳とする。


そんな瞬間、
今までの人生の欠点が、
すべて吹き飛んでしまうほど、
その人は静かに上品に、輝いている。


それは、思うに、今の被災地の人々であり、
救助に当たる人々である。


外の国の人々が、
賞賛し、まねが出来ないと言ってくれる、
それが日本人の品位であり、
善良なところ。
また、当人達がそれを
「あたりまえのこと」と軽く言ってしまうところが、
なお美しい。


日本は美しい。
いままでもわかっていたけれど、これほどまでにとは。








補足:
でも、
なにはともあれ今は、
救助、安否、食、暖、トイレ、情報、清潔、精神的肉体的な安らぎ、
こっちが大事ですね。
きれいごと言ってる場合じゃありませんが、
本当の事書いただけです。


周りは何かしたいと思う。
けれど、そんな自分の気持ちにそっと耳を傾けると、
「自分の満足の為に、何かしたい」となってはいないだろうか?
私はある。なってる時が。


被災地の方が、本当にして欲しい事を、
必要な量だけ出来たらいいけれど、
なかなか難しい。


食料が不足、と言えば大量に送られ、
過剰になり、捨てられる、
という例もあるのだ。


ここでも、冷静で勤勉な日本人であることを生かして、
どのような支援が良いのか、
考えどころである。


すぐ出来て、間違いないのは、
確かな所への義援金寄付だろう。


今も、これからも、
莫大な予算が必要なのはわかっているから。
被災者側にはもちろん、救援側にも。


救援者だって、
栄養のある物ちゃんと食べて、
休憩もして、なるべく良く寝て、
パワフルに救援活動したらいい結果がでるだろう。


さぼってやろう、と、さぼって居る人は1人もいない。
放心状態で座り込む救援隊の人にも、
背中を抱きしめて、
お疲れさまありがとうの気持ちを贈りたい。


twitterでも、
地震後に、おもしろおかしくつぶやく人や、
平常通りにつぶやいて批判されている人もいる。
口には出さないが、
被災地の人を励ましたい、いつも通りにつぶやいて、
いつもの安心感を届けたい、
いつものネタで笑って欲しい。と考えてのことだと私は思う。


そんな不器用な善意のある人がたくさんいる。
また、それは勇気のいることだ。


善意のリツイートが迷惑になる事だってあるのだ。
良いか悪いかは、
被災地の人が決める事であって、
twitterのなかで小競り合いすることではない。


その根底に愛があれば、
それは伝わる。


だって、日本人なんだから。


  

2011/03/11

何故か、「今がその時だ」と思える。理由はない。



ブログ原稿書いても、
書き込んでいるうちに、
あ、これ、今日載せる感じじゃない。って、
保存しちゃうものが結構がある。


そう言う原稿は、
なるべく早く手直しして、
タイミングを見計らってブログにアップするようにしてるけど、
タイミングをのがして、
ずっとevernoteにおさまっているのもある。
「未完成」のタグを着けて。


どうも納得いかない物。
まだ手直しの余地があるってこと。
もしくは時期じゃない気がするもの。


ずっと手直ししながら様子を見ている「動いてる物」や、
長い話で執筆途中の物は、
ommwriterでデスクトップに保存してるけど、
じわじわとたまって来てる。


ある程度の長編は毎日少しずつ書き足したり、
修正したりで、普段は進みは遅いけれど、
何かが降りて来ると、
劇的に進む。
そんな繰り返し。


で、「長い物を書いている間はブログは休む」、と言うのはつまらないので、
毎日のブログはブログで、ささっと書く。


ささっと書くなんて、簡単そうに言ってみたけど、
私にとって毎日ブログを書くのは決して簡単な事ではない。
書くのが好きだからといって、
得意なわけじゃないのだ。


豊かな湧き水のように次から次へとあふれ出て来る日もあるにはあるが、
そんな日はそうは訪れない。


いつもは、ある程度まで書いてから手直しを数回くりかえし、
結局しめが上手く行かなかったり、
集中力が続かなかったり、
眠くなったりでその話は保存して片付ける。
ああ、情けない。
でも、大事に書きたいから。


悩んでいても時間の無駄なのはわかっているので、
上手く行かない時は、あっさりあきらめて保存する。
それがたまってくるのだ。


ただ、以前「とにかく仕上げなさい」というアドバイスをどこかで読んで以来、
なるべく新しい物を書き出す前に、
保存してある物をチェックして、
今なら仕上げられる、アップ出来る。と言う物を選び、
やっつける。


ただし、新しいものが「今だ。」と言う場合も多いので、
それはタイミングを逃さずに、
すぐに書くべきなのだ。


この話、今書いているうちに、
今日は無理だという気がしてきた。






補足:「今日は無理だという気がして来た」と書き残した物を
    あとで読み返したら、
    このまま、今日載せるのはありだな、
    と思ったので、そのまま載せました。
    矛盾してますが、
    何故かこれは、今日がその時なのです。


  

2011/03/09

Dior "Diorissimo"私にとって最高の香り。



小さな頃、
私がものごころつくかつかないかの頃からの
叔母の記憶。


華やかで、美人で、社交的、
頭が良く、よく気がつく。
そんな女性。


子供のいなかった叔母は、
私をとてもかわいがってくれた。
「桃みたいで、食べちゃいたいくらいかわいいから、
 あなたの名前はももちゃんね」
と、叔母だけは私をももちゃんと呼んでいた。


溺愛と言って良い。
いつも鼻にかかった猫なで声で、甘やかせてきた。


物を買い与える、
何でも先回りして、至れり尽くせりしてくれる、
過剰なスキンシップ、キスの嵐。


絵がうまく、お絵描きの大好きな私に、
たくさんの絵を描いてくれた。


美しいお姫様に、ハンサムな王子様、かわいい動物たち。
ヨーロッパ的な画風で、落書き帳にささっと描いてくれた。


「これ、ももちゃんよ。」と言いながら、
お姫様の絵をよく描いてくれた。
もちろん私とは似ても似つかない、
外国のお姫様の絵。


今思うとあの画風、
あの年代の人にしてはかなりおしゃれだった。
デザイナーの描くデッサンのようだった。


叔母は都会人で、
新しい物をいろいろ教えてくれた。


あるときお土産に買って来てくれたのが、
その頃はめずらしい「クロワッサン」
小さな私は「この世にこんなおいしい物があるなんて」と感激したのを
覚えている。
そんな私に、叔母は遊びに来るたびに、
クロワッサンを買って来てくれたものだ。


また、叔母の家に遊びに行くと、
いろいろな物を私に見せてくれた。
私が純粋に感激するので、
見せたかった気持ちもあったのだろうか?


中でも叔母の寝室の化粧品の入った棚の中の華やかなこと。


螺鈿のようにキラキラ光るパフのケース。
ビーズのじゃらじゃらとたくさんついた、ポーチ。
コンパクトも更に美しいレースの小さな袋に入れてあって、
ボタンが真珠でできていて、
薄暗い寝室で静かに光っていたのが今でも鮮明に思い出される。
粉をはたくピンクの羽毛のような大きなパフ。
技巧を凝らした口紅のケース。
香水の瓶たち。
辺りを漂う良い香り。


私がこの世で一番好きな香水、
ディオールのディオリッシモも、
叔母の家でその香水をつけてもらった幼児体験があり、
中学の頃遊びに行ったときに、
ディオールのディオリッシモの香りに感動していたら、
叔母が使いかけのディオリッシモをくれた。


大人になって香水売り場に行った時、
何とも言えない密やかな華やかな思い出とともに、
改めて本当にディオリッシモが好きになったものだ。
そして、こんなに高価な物だったのかと驚いたのでした。


女性の秘密の城。
化粧品とともに、
香りやきらきらやときめきや喜びの入った棚。
そんな女性の特権があることを、身をもって教えてくれたのが、
私の叔母です。


  

2011/03/08

いつもと違う精神状態。 しかもマイナス思考、ダークサイド、鬱状態。



かなり落ちていた日、おととい。


「絶好調ですか?疾走感がある」とブログを褒めてくれた人がいた。




いつもと違う精神状態。
しかもマイナス思考、ダークサイド、鬱状態。


それで文章がいきいきと疾走感を醸し出す?
なぜだろう?
考えるべきところだ。


やけになって、連続投稿したのを覚えている。
活字がすらすらと降りて来て、
それを、考えずにひたすら書いた。
手直しも殆どしなかった。


あの感覚を得るには、
また落ち込まないといけないなら、
身が持たない。


いつでもあの状態を引き出せるよう、
努力したい。
それが出来なければ、
物書きにはなれないだろう。


落ち込みの原因の人も、
褒めてくれた人も、
また、ブログを見てくれる人も、


私にとってかけがえの無い存在だ。
 
  


 




補足:今happy状態なので、こまりものです




 

どうする?この状況。



とても落ち込んでる時に書いたブログを、
褒められた。


今は落ち込んでない。


どうする?この状況。

誰かの面影が私を起こす。



夜中にふと目覚める。


なにかの気配なのか、
夢のなごりなのか、
ことり
と言う追求されない音なのか、
誰かの面影なのか、


なにかが私を突然に起こして、


私は時計を見る。
1時40分。


意外に冴える頭で、
この瞬間私の愛する人達が何をしているのか、
思いを馳せる。


甘い寝顔で眠っている所を思い描き、
私もまた眠りにつく。


昨夜のことでした。




人生って素晴らしい。


  

2011/03/07

私の考える理想のデート



緑の輝く街路樹の、
都会の並木道の、
待ち合わせ場所のカフェをはさんで両方から、
お互い近づく。


途中、遠くのお互いの存在に気付き、
目配せしながら待ち合わせ場所に近づいて行く。


だんだん笑顔になり、
周りの目も気になるけれど、
笑顔を止められない。


もう出逢っているので、
待ち合わせ場所の意味も無いのだけれど、
あえて素知らぬ振りで、
お互いそのカフェに入る。


「お嬢さん、待ち合わせですか?」と彼。目が笑っている。
「はい。」と私。
「良かったら、一緒にどうですか?」
「いえ、彼を愛してますから、知らない人とはだめです。」
などと冗談を言い合って座る。
会話はゆっくり、目を見て話す。
会話が途切れても、お互い気にしない。
だまっていてもいいのだという、心地よさ。


そのあとは少し街を歩き、
ウィンドショッピング。
他愛も無いちょっとしたもの、
お香とか、そんなものを買って、
そろそろランチの事考え出すと、
彼が、
「海いかない?」って言い出す。
もちろん、行きます。
海大好きです。


目についたデリカテッセンで、
サンドイッチを買って、
彼のバイクで並木道を走る。
もちろん、彼にしっかりつかまります。
それが、重要です。


30分程走ると海に着く。
誰もいない。
白い砂浜におそるおそる足を踏み入れるも、
すぐに靴に砂が入り、
靴を脱いで裸足になる。
少しだけ、と言って波打ち際に。


しばらく遊んでから、
サンドイッチを食べる。
食べ終わってから、
砂浜に座って海を眺めたり、
話したり、ふざけたり、
カジュアルなキスをしたりして、
すごす。


そろそろ帰ろうか?となって、
バイクまで戻る。
そしてふとした拍子に、
バイクによりかかり、
カジュアルではない、
ため息のでるキスをする。


その後は考えていません、なりゆきで。








※事実との因果関係は全く全くございません。
 架空のお話です。



これが大人ってやつですか?



リセットボタンを、
昨日押したのですが、


実ははったりでした。


強がって、自分に言い聞かせて、
リセットなんか、出来ない!
って思いながら、
無理に押したのです。


でも、とても成功しちゃって、
本当にリセットされちゃいました。


強がりじゃなく、
本当にリセットされちゃったんです。


私って、こんなに単純だった?


もちろん、苦い恋心は残ってますよ?
だけど、ぜんぜん心は暗くない。


これが大人ってやつですか?


 

やはりこの話がたどるべき道はひとつのはずだから。



長いお話を裏で書き続けている。


何日もかけて書く訳で、


雨の日も風の日も、快晴の日だって書く。


もちろん、お天気のことではありません。


私の精神状態のことです。


お話に精神状態が反映しないようには書いてますが、


ストーリーを考えながら書くので、


展開がハッピーになるか、ダークになるかの違いは出ちゃうかも?


いや、それはない。


やはりこの話がたどるべき道はひとつのはずだから、


それを探って仕上げるまでです。