2011/03/15

愛する人と向き合う方が、 どんなに有意義かわからない。



このところ、
ひどい事言っちゃう人に、
失言失言と叩きまくる空気がある。


失言を聞くと確かに胸が痛く、
いらつき、正義感が刺激されて、
怒りが込み上げて来る。


しかしその時、その人は
愛する人に背を向けて、
ひたすら怒りの対象に向かって
我を忘れてわめきちらしていて、
愛する人の小さな声を聞く事が出来ない。
「その人の事は良いから、こっちへ来て私の声を聞いて」


失言はあくまでも失言。
間違って言ってしまった事。
それを「失言じゃない」と言い張り主張を続けるならば、
何かしらの制裁は自然と下る。


失言だったと謝れば許すべきだし、
もともと、
時間をさいてそこに取り合う事自体、
ばかばかしいのだ。


その時間
愛する人と向き合う方が、
どんなに有意義かわからない。


想像力のつばさを羽ばたかせて、
被災地に行ってみる。
被災者の方の声を感じ、痛みを感じて、
要望を知り、
自分が無力であることを知り、
それでも謙虚に役に立つ事を少しやって、
少しでもいいから、義援金寄付をして、
失言した人をゆるし、
被災地の痛みが少しでも和らぐように祈り、
twitterで有益で確実な情報をリツイートし、
それを復興にさしかかるまで、
何度でも続ける。
毎日毎日。


だから、
失言した人に関わっているひまはないのだ。


 



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