2011/03/06

おじいちゃんへの手紙



静かで、無口で、ストイックで、冷たいような、


それでいて、晩年になって、


死ぬ間際になってやっと、


内面にもともとあった優しさを表に出せるようになった、


とても不器用なおじいちゃん。




戦時中も戦後も、そこそこ社会的地位はあったものの、


家では優しい影のように、


いつも同じ場所に、黙って座っていた。




おじいちゃんの人生って、


本当は、どう言い表せるの?


言い表せるの?


教えて、大好きなおじいちゃん。






おじいちゃんの丹誠込めた自伝の分厚い原稿は、


あの人がいとも簡単に捨ててしまいました。私が読む前に。




身を削って、命を削って書いた文章ですね?


その気持ち、私にも少しはわかります。少しはね。




でも捨ててしまえば二度と戻らない。


ましてや書いたおじいちゃんは、もうこの世にはいないでしょ?




もう、私には記憶の中にしか、


おじいちゃんの痕跡はありません。




おじいちゃんの形見も頂いていませんし、


おじいちゃんの建てた家も、もうありません。


おじいちゃんの筆跡も、もう忘れそうです。




だけど、だけど、


無条件に愛してやまない、おじいちゃん。




生きた証が風前の灯火でも、


そんな事はどうでもいい。


自分だっていずれそうなる。


何もかも脱ぎ捨てて死んでゆくのだ。


生きた証?


そんなの無くたっていい。


誰の記憶にも残らなくても、


私は今生きているのだ。


活字と結婚しているのだ。




すこやかなるときも、病めるときも、


喜びのときも悲しみのときも、


富めるときも貧しいときも、


私は活字を愛し、敬い、


命ある限り真心を尽くすと誓う。


それ以上何が必要か?


生きた証なんか、必要ない。


死んだ後のことなど、


どうでもいい。


  


  

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