2011/01/19

二度と手に入らないもの

私が生まれ育ったあのおじいちゃんの家はもうない。
思い切り走りまわった広い庭は、
もう私の記憶の中にしか存在しない。
庭のすみずみまで覚えているのに。


おじいちゃんの作った物置小屋、
おじいちゃんの作った鯉の池。
おじいちゃんの作った藤棚の藤は
それは見事な平安絵巻の美しさだった。
立派なクマンバチも同居していたけれど
それも刺激的だった。


庭木の手入れも行き届いていた。
毎年しじゅうからが巣を作り卵を産んだ灯籠。
よくヒナが鳴くのを覗き込んだ。
しじゅうからにとっては私は危険人物だったと思うが、
灯籠の穴は直径3センチ程度、
石造りで、
私は指をくわえて眺めるだけ。


おばあちゃんが愛情込めて手入れしていた花壇。
いつ見てもおばあちゃんが草取りをしてた広い芝生。
野菜も少し育てていた。
そこは虫たちの楽園でもあった。


毎年たわわに真っ赤な甘い実を付けるグミの木。
摘み取って食べ放題だった。
美しい赤い椿やピンクの山茶花。
背の高い糸杉がきれいに刈られて並び、庭を囲み守っていた。
大きな桜の木もあった。


山吹の葉っぱを摘んで遊んだり、
ネムノキの、触るとしぼむ葉っぱを
片っ端から触ってしぼませたり、
一人っ子の私は、
小さな王国の王様だった。


その王国が滅びたのだ。
もう二度と取り返せない。
何故なら手放したその場所には現在、
どこかの不動産業者の
メゾネットタイプの賃貸住宅が
4棟(4棟!)建っているから。


そこを通るたびに、
ちょっとした敗北感とともに、
あのあたりに桜の木があって、
この辺に私の部屋があった、と言う
甘い記憶がよみがえる。


でも、今私の記憶の中にあるあの家は、
とても鮮明に美しく、大きなガラス窓から庭を臨めば
雪の日はみごとな銀世界、
夏の日は攻撃的なまでのグリーン、
春は蝶が飛び交い、そこにはいつもおばあちゃんの白い割烹着が見える。


しがみついているわけではない。
まだ私の中に何もかもが生きてそこにある。
私がいつか死ぬまでは
いつでも美しいままで、ここにある。



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