2011/02/17

シトリンは食さなければならない。



あるお屋敷にシトリンは住んでいます。


お屋敷に住んでいる、と言うよりも、
お屋敷に仕える執事ヒューイの、
ジャケットに住んでいる。


いつもヒューイと一緒。


ヒューイは無口。
表情は硬く、まじめ。
ご主人が信頼してやまない、
一流の執事。
尊敬しているご主人の為にと、
日夜努力をおしまないヒューイ。


朝ヒューイは朝食を作り、新聞紙にアイロンをかけ、
庭で切って来たバラを生け、ご主人を起こす。


ご主人に給仕しながら、
今日の予定を静かに手短に伝える。
もちろん、食べ物の前では話さない。


ご主人が朝食をとっている間に、
バスルームの準備。


ご主人が決めた服にブラシをかけ、ボタンをはずしておく。
既にピカピカに磨いてある靴を、
もう一度軽く磨く。


履き易いように、
左右の靴を少し離しておく事も、毎朝の決まった手順。


シトリンも一緒にヒューイのポケットや襟元から、
見守る。
そのあいだシトリンはヒューイが満足しているのを
感じている。


シトリンは付いている人の気持ちがわかる。
それは、文字通り「わかる」のです。
いつもあまり表情も変えずにもくもくと仕えるヒューイの気持ちも、
当然シトリンにはわかっている。
眉ひとつ動かさないヒューイの悲しみが、喜びが、
シトリンには手に取るようにわかる。
人間の言葉はわからないが。


たくさんの人を雇うのが煩わしいご主人の意向で、
ヒューイは望まれてあらゆる事をこなすようになった。
ヒューイはご主人の信頼に応え、
自分の美学をもとにハウスキーピングを研究し、
能率的かつ美しく、細やかに尽くして来た。
ご主人はヒューイにたくさんの報酬を惜しまないが、
ヒューイは殆ど金を使う事がない。


ご主人を送り出した頃、
奥様が起きて階段からゆっくりと降りて来る。
美しい薄物を羽織って、
のびやかにキッチンに入って来る。


奥様はミキサーにフルーツやらスパイスやらを放り込んで、
無造作にスイッチを入れる。
グラスに注ぎながら、
「ヒューイもどお?」と屈託なくすすめてくる。
ヒューイは用意していた切り花をテーブルにそっと置き、
「いえ、結構ですよ」と、
そばで何かと給仕しようとするが、
「いいのヒューイ、ありがと」と奥様が微笑むと、
硬い表情のまま軽く頭を下げて、
ヒューイはその場を去る。
状況が許せば、
ヒューイはちらと奥様の様子を盗み見る。
一度だけ。
二度は見ない。
気持ちを抑える。


奥様が起きて来ると、
シトリンはヒューイの心が千々に乱れるのを感じる。
負の感情。


シトリンは、
人間の「負の感情」を食べて生きている。
朝からヒューイと過ごしていると、
奥様が起きて来てはじめて、
シトリンは食事にありつけるのだ。
ヒューイの叶わぬ恋。


シトリンは
ヒューイが好きだ。
その負の感情を糧に生きるのは、
シトリンの本意ではないけれど、
それを食さなければ生きて行けない。
だから黙って食べる。
自分は悪魔なのだろうか?


午後、電話が鳴る。
ヒューイが出るとご主人からだ。
奥様に取り次ぐ。


電話に出た奥様は、
髪をもてあそびながら、
輝く笑顔。
密やかな含み笑い。
受話器の向こうに愛する人がいるのは一目瞭然。
ヒューイの心は暗く乱れて、
シトリンはまた食事にありつく。


夜ご主人と奥様がディナーから帰って来る。
ヒューイが出迎えると、
少し上気した奥様がご主人に腕をからめて、
上機嫌で入って来る。
「ありがと、ヒューイただいま」軽くヒューイの背中をたたき、
ご主人と寝室の方へと歩いて行く。


ヒューイが呼吸を、気持ちを整えてからキッチンへ行こうとした時、
奥様が玄関ホールに引き返して来た。
ふいにヒューイの手を取り、
手のひらに金の箱を乗せた。
「これあなたの好きなショコラ、感謝のきもち」と言って、
また寝室の方へと引き返して行き、
「おやすみなさいヒューイ」と振り返りもせず軽く手を振り、
今日の仕事の終わりを告げた。
いい香りを残して。


しばらくホールに立ち尽くすヒューイのポケットで
シトリンが食事にありついたのは、
言うまでもない。


夜シトリンはヒューイのジャケットから出て、
ヒューイの枕元や、
パジャマのポケットで眠る。
ヒューイは夜寝たままの姿勢で、寝返りもうたず、
朝まで真っすぐに眠るので、
ポケットにいても安全なのだ。


でもシトリンは夜通し、
食事をしなければならない。


シトリンはもう、
こんなことしたくない。
逃げ出す事を考えたりもする。


でも、シトリンが食べるから、
ヒューイはこらえられる。


シトリンがヒューイの負の感情を食べなければ、
ヒューイの負の感情は溢れ出してしまう。


その仕組みは、シトリンもヒューイも知らない。
ヒューイに至っては、
シトリンの存在すら知らないのだ。


あふれる、激しい感情を長年、
どうしても抑えないといけない人のところに吸い寄せられる、
シトリンは妖精なのだ。


 

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